2008年05月05日

上杉謙信

あの有名な戦国大名 上杉謙信。

彼は、上杉憲政より上杉の姓と関東管領職を譲られ上杉謙信となった。
本来の姓氏は、長尾氏である。
これは、一般に当たり前に知られて、いる事である。
では、長尾氏はどういった出目なのかは、どうだろうか?

長尾氏は、桓武平氏の一族で、鎌倉氏の一族である。
平良文の流れを汲む。
良文はあの平将門の叔父である。

鎌倉氏は、相模国鎌倉郡を中心に勢力を伸ばした武士団である。
長尾の家名は、鎌倉景明の息子で大庭景宗の弟である景弘が
相模国鎌倉郡長尾庄(現在の横浜市栄区長尾台町周辺)に住んで長尾次郎と称した事に始まり、坂東八平氏のひとつに数えられる。


源頼朝が挙兵した際に平家側につき、さらに平家滅亡後は、同族
三浦氏の配下となった。
長尾定景は、公暁を討ち取るという功績も挙げたが、宝治合戦で三浦氏と共に、一族がほぼ全滅し没落した。

その後、長尾氏の生き残りは、鎌倉時代末期から南北朝時代初頭頃に関東へ入部した上杉氏に仕えます。
長尾氏は鎌倉時代において、非御家人の家であったが、長尾景基が婚姻関係によって上杉藤成らの外祖父となり家中での地位を上げて上杉家臣筆頭格となった。
その後も長尾氏は、上杉氏との婚姻を繰り返し外戚関係を強化していき上杉氏が関東管領として関東、越後に勢力を広げると、その家宰や守護代として各地に諸家家を分立させ繁栄した。

大きく分けて3つの諸家に分かれたが、

白井・総社長尾氏
山内上杉家の祖上杉憲顕に仕え上野国と越後国の守護代を兼ねて長尾氏を中興させた長尾景忠の子孫。
景忠の孫の時白井を本拠にする白井長尾家と、総社を本拠とする総社長尾家に分かれて、両家で山内上杉家宰職と上野守護代を交代で務めた

鎌倉・足利長尾氏
景忠の一族で養子の景直を祖とする家。

越後長尾氏
景忠の一族で養子として景忠から越後守護代職を譲られた景恒を祖とする家。
景恒の子の時上田荘を本拠とする上田長尾家。
古志郡蔵王堂を本拠とする古志長尾家。
蒲原郡三条を本拠とする三条長尾家に分かれた。

三条長尾家は、越後守護代を世襲し越後府中に居住したため、この家を府中長尾家とも呼ぶ。
ちなみに上杉謙信こと、長尾景虎は、この長尾家である。

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posted by 隆光 at 23:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 坂東平氏一族 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年04月30日

坂東武者・・・平将門

最近、CS放送の時代劇専門チャンネルに気にいったドラマが・・・

それは、『風と雲と虹と』です。

今をさかのぼる事32年前  1976年の大河ドラマです。

主人公は平 小次郎将門。

主な人物に藤原純友、藤原秀郷などなど。

時は、平安時代中期。
京の貴族社会に弓を引いた史上初めての武士です。
当時の武士は、貴族の用心棒的な、立場だったので、大変な事件でありました。


将門は桓武天皇の子孫で平氏の姓を授けられた高望王の孫。
鎮守府将軍、平良将の子。
下総国、常陸国に広がった平氏一族の抗争に端を発し、関東諸国の国衛を襲い印を奪った事から、朝廷から敵と見なされた。

その為朝廷に対抗して、独自に天皇に即位し「新皇」を名乗り、朝廷からの坂東独立国建設を目指したが、藤原秀郷、平貞盛らにより、討伐された。


これが事の顛末であるが、将門は下総国の豊島、猿島両郡に勢力を持っていた父、良将のもとに生まれる。
坂東平氏の彼ら一族は、関東に勢力を張り、後の千葉一族、三浦氏や、北条氏、豊島氏、江戸氏、葛西氏、相馬氏などの祖となっています。
彼らは鎌倉幕府ができた時、源頼朝の味方をし幕府に登用され有力御家人となっていきました。

ちなみに、伊勢平氏と呼ばれる清盛を始めとする、一門も、彼らから出ています。

将門は国家に弓を引いたとして、明治時代に国賊とされ、そのように教育もされたようで、その際に神田明神などでも祭神をはずされた、そうです。
しかしながら、地元では、英雄として、語りつがれていたようです。
農民と共に生き、共に汗を流し、農民の為に独立国家を目指したとして。


茨城、千葉で、彼らの足跡を辿ってみるのもいいかもしれません。
後に武士の世になる為の一歩はここから始まったと言っていいかも。

神田明神では、後に祭神の一人として、復帰しています。

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2008年03月14日

柴又帝釈天

CAFMRPXH.jpg東京の下町、葛飾区に『フーテンの寅さん』で有名な柴又帝釈天があります。

ここの参道には、草団子屋などもあり休みの日などは、観光客でにぎわってます。

この草団子は、美味しくので行くたびに買っています。

中学生の頃は、大晦日に歩いて一人で初詣に行ったりしてました。

帝釈天の建物も結構味があって素敵ですよ。


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2008年03月10日

戦国マイナー武将(関東編)上総武田氏

1上総武田氏 続き

庁南武田氏二代の宗信は、真里谷本家を助け二度にわたる本家の内証を調停し、庁南武田氏の力を内外に示した。
 しかし酒井氏の台頭と、小弓城主原氏との国境争いに骨身を削ったという。
土気城を拠点とする酒井氏の勢力拡大は、武田氏の東上総支配を揺るがせ、北総進出への道を閉ざされることとなり、武田氏にとっては、大きな障害となる存在であった。
ついには、庁南武田氏と直接国境を接する程になった。
 又、国境争いで原氏とは争いを引き起こした。
原氏は千葉氏の後ろ盾もあり、戦うたびに退けられていた。
これを見かねた真里谷武田信勝は、足利義明を、奥州から迎え、その声望によって房総の諸豪を糾合して原氏にあたった。

足利義明を大将に真里谷武田氏、庁南武田氏、さらに里見氏が
加わった連合軍6千人で小弓城を攻め落城させた。
以後小弓城には、足利義明が入り小弓御所と呼ばれた。

1538年に小弓義明の勢力拡大を危惧する古河公方足利晴氏は、
後北条氏に頼み、下総葛西城を攻めさらに小弓城を攻略せんとした。
これに対し小弓義明は、房総諸豪に参陣を求めた。
里見氏、真里谷武田氏、庁南武田氏、さらに酒井氏らが、国府台に集まった。
これが『第一次国府台合戦』であり、後北条方の勝利におわった。

その後庁南武田氏三代の吉信の嫡男清信が早世したことから
後継者問題が起こった。
この時甲斐の武田信玄の三男である豊信を養子に迎えている。

 その後秀吉の小田原攻めの際、後北条氏は、篭城に決し関東の諸将
に小田原防衛に駆けるよう激を飛ばした。
これに千葉、原、高城らの千葉一族、土気、東金の両酒井氏、万喜城主
の土岐氏らが小田原に兵を送った。
 この時真里谷武田氏、庁南武田氏は、どちらの味方をするか迷い、
小田原に兵を送った様子も無く、かといって秀吉のもとへ参陣もしていない。

秀吉の降伏勧告を受け入れた北条氏直は、小田原城を開城し後北条氏
は、壊滅した。
そして後北条氏が領した関八州は家康に与えられ里見氏は、参陣が
遅れたという理由で、上総、下総は没収され、安房一国だけが与えられた。
態度が不透明だった両武田氏は没落の運命となった。
庁南城主の武田豊信は、徳川勢に攻められ自刃してはてたとも信濃
松代に逃れたとも云われる。
真里谷城の信高は徳川勢に降伏し城を開城すると下野の那須家にて終わったと云う。

こうして両家合わせて、二十五〜二十八万石と推定される真里谷、庁南
の両武田氏はあっけなく没落したのであった。


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2008年03月07日

戦国マイナー武将(関東編) 上総武田氏

1 上総武田氏

昨年の大河ドラマの甲斐武田氏の一族です。

武田氏は清和源氏で、新羅三郎義光の後裔と伝えられています。
鎌倉、室町時代を通じて甲斐守護に任じられ多くの一族が分出しています。
南北朝がひとつになって間もない1416年に「上杉禅秀の乱」が起きた。
禅秀の舅であった甲斐守護の武田信満は禅秀に与して、翌年、鎌倉府の軍勢に攻められて敗れ木賊山で自害した。
武田氏は離散に追い込まれ、甲斐国では、国人層が勢力を拡大していった。
 信満の子信長は、宗家を継いだ子の伊豆千代丸を助けて武田氏の勢力回復に努めたがそれは、かなわなかった。
 その後「永享の乱」が起きると信長は幕府軍に加わって、足利持氏討伐に活躍した事で相模に所領を賜った。
 その後「享徳の乱」に際して安房の里見氏や、下総の結城氏と共に、
公方成氏に味方して、各地を転戦し、一連の戦功によって上総守護代
に任ぜられた。

上総に入った信長は、庁南、真里谷の二城を、築いて根拠とした。
さらに、久留里や、椎津、造南、峰上、笹子などに城を築いて、一族
を配置して、支配体制を確立していった。
そして、真里谷城には、嫡男の信高を入れ、自らは庁南城に入った。

信長は1477頃に没しその後を継いだ信高も信長と前後して、死去した。
信高のあと、庁南城には、長男の道信が入り、真里谷城には、信興が、
久留里城には、信房が入った。
そして、道信の系は、庁南武田氏と呼ばれ、信興の系は、真里谷武田氏と、呼ばれるようになった。・・・・・・次回に続く

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2008年02月22日

館山に行った

画像 046.jpg館山に行きました。
と、言っても何ヶ月か前の話ですけどね。

目的は、館山城と、安房神社を見る事。

館山城は、館山市内の小高い山の上にありました。
ここからは、海が一望できとても良い眺めでした。
この城は江戸時代に滝沢馬琴が書いた『南総里見八犬伝』で有名な、
安房里見氏の9代目義康が天正16年に築いた城です。

元々、里見氏は清和源氏で群馬県の新田荘に住み新田氏を名乗っていたが、群馬の里見郷に移り住み里見氏と称したらしい。
里見家基の時、茨城の小原に移り、関東公方足利持氏に仕えたが、結城合戦で戦死し、その子義美は、神奈川の三浦に逃れて三浦氏の援助により安房白浜に上陸すると安房一国を平定し領土とした。
たがて、上総、下総のも勢力を伸ばして6代義尭の時には、その所領は57万石といわれたらしい。

1538年に小田原北条氏の攻撃を受け、国府台の戦いにも敗れ、
本拠地であった岡本城も、危うくなった為、9代義康が城を移し、
本拠としたらしい。
その後、1857年の小田原征伐の時、参陣の遅れにより、封領を、
9万石に削られ、関が原の戦いの功により、2万2千石の加増となったが、1614年小田原の大久保田忠隣の事件に連座して、鳥取の倉吉
3万石に転封となったそうです。


次に安房神社に行きました。
緑に包まれた、とてもいい神社でした。
以前からとても来たかった所なのです。

ここは、安房国一ノ宮で天太玉命を祭神としています。
平安時代の『延喜式』に記される式内社で、806年には、100戸
の封戸を有していたらしい。
この神社の祭神は阿波の忌部氏の祖神であり、阿波の忌部の一族が
海を渡ってこの地に上陸し開拓を進め、その地に祖神を祭ったものとされている。

今から1200年以上前の出来事である。
忌部氏は各地でこのような開拓をおこなったとされているようである。
帰化民族であるようであるが、当時の日本では高い技術をもっていた
のであろう。

実は、まだ阿波の忌部神社には、行った事が無いので是非一度は行って
みたいと思っています。
考えてみると、忌部氏については、あまりよく解ってないらしいので、
余計に興味が沸くようである。

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posted by 隆光 at 15:14| Comment(2) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年02月17日

『鹿男あをによし』明日香に思いを寄せて その2

遅くなりました。
明日香訪問の続編です。

その日は、寒く、低いどんよりとした雲のある日で案の定、
雪がパラパラと舞い落ちてきました。

甘樫の丘をあとにして、川原寺跡?へ・・・・・
伽藍配置の礎石が並んでいました。
国分寺跡とかでもいつも思うのですが、建物が無く古びた礎石だけが
残っていると言いようのない気持ちになります。

次は石舞台古墳へと向かいました。
古墳の盛土が無く、石室が完全に露出しています。
確かに大きいです。
石室に入ってみると広いです。
蘇我馬子の墓と云われていますが、確証はないそうです。
そして、ここの駐車場で無人売店で買ったミカンを食べました。
形も悪く、傷もあったけど、確か100円で10個ぐらい入って
いたような気がします。
相変わらず、雪は降っておりその雪の舞う姿を見ながら、ぼーっとしながら食べた気がします。
その味は、とても甘く美味しかった。

次は『伝板葺宮』へ
ここは乙巳の変の舞台となった所です。
皇極天皇の眼前で蘇我入鹿が刺殺されたとの事。
ここは、明日香における歴代の宮が建てられた場所で遺構が重なって
いるそうです。

水落遺跡(水時計だそうです)を見て藤原京へと向かいました。

今は『藤原京跡』の碑が建っているのみです。
当時は、それほどの規模だとは、思われていなかったのですが、
その後の発掘調査によって、最大の規模を誇る都であった事が判ったそうです。

でも明日香の地は三山に囲まれた狭い地域なのに、当時の日本の
中心であったとは、びっくりします。

私の訪問した後に酒船石遺跡やキトラ古墳の彩色の絵などが発見され
明日香も整備がさらに進んだようです。
久しぶりに訪問してみたいです。
なかなかチャンスも今はないですが、必ず行きたいと思います。


posted by 隆光 at 14:49| Comment(2) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年02月08日

『鹿男あをによし』明日香に思いを寄せて

奈良を舞台にしたテレビドラマ『鹿男あをによし』。

奈良を中心にロケが行われているのだろうが、先日、明日香でロケが行われたとのこと。

それで思い出しました。

7年程前に一度だけ行った事がある事を・・・・

それは関西出張中の間に挟まれた日曜日でした。
ただ一人奈良にいてもやる事は無い。
観光しよう」決まりです。
前から一度行ってみたかった明日香に行くことに決めました。
遠い昔、手塚治虫の『三つ目がとおる』をよく読んでいてとても興味があったからです。
時は冬、雲は低くどんよりとしていました。

亀石や酒船石、鬼の雪隠など用途不明の石造物。
狭い地域に密集する遺跡の数々。
蘇我氏の邸宅があったと云う『甘樫の丘』。
ここからの景色は感動しました。
自身の身を遠い過去に置いているかのような錯覚に陥ります。
物部氏を滅亡に追い込んだ蘇我氏。
そして自らも、乙巳の変により本宗家は滅び、焼き尽くされた邸宅。

呆然とたちすくんでしまいます。
そんな時、空から白い羽が・・・
雪でした。
幻想的な風景が目の前に広がります。


長くなってしまいました。
又、折をみて続けます。


posted by 隆光 at 14:10| Comment(2) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年02月07日

今日から始めるぞ

やっとブログの登録が済み、ぼちぼち始めよう。

日記なんて書いたことないけど、どうなることやら?

神社や城の話が多くなる事は間違いないかな。
posted by 隆光 at 13:58| Comment(2) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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