1上総武田氏 続き
庁南武田氏二代の宗信は、真里谷本家を助け二度にわたる本家の内証を調停し、庁南武田氏の力を内外に示した。
しかし酒井氏の台頭と、小弓城主原氏との国境争いに骨身を削ったという。
土気城を拠点とする酒井氏の勢力拡大は、武田氏の東上総支配を揺るがせ、北総進出への道を閉ざされることとなり、武田氏にとっては、大きな障害となる存在であった。
ついには、庁南武田氏と直接国境を接する程になった。
又、国境争いで原氏とは争いを引き起こした。
原氏は千葉氏の後ろ盾もあり、戦うたびに退けられていた。
これを見かねた真里谷武田信勝は、足利義明を、奥州から迎え、その声望によって房総の諸豪を糾合して原氏にあたった。
足利義明を大将に真里谷武田氏、庁南武田氏、さらに里見氏が
加わった連合軍6千人で小弓城を攻め落城させた。
以後小弓城には、足利義明が入り小弓御所と呼ばれた。
1538年に小弓義明の勢力拡大を危惧する古河公方足利晴氏は、
後北条氏に頼み、下総葛西城を攻めさらに小弓城を攻略せんとした。
これに対し小弓義明は、房総諸豪に参陣を求めた。
里見氏、真里谷武田氏、庁南武田氏、さらに酒井氏らが、国府台に集まった。
これが『第一次国府台合戦』であり、後北条方の勝利におわった。
その後庁南武田氏三代の吉信の嫡男清信が早世したことから
後継者問題が起こった。
この時甲斐の武田信玄の三男である豊信を養子に迎えている。
その後秀吉の小田原攻めの際、後北条氏は、篭城に決し関東の諸将
に小田原防衛に駆けるよう激を飛ばした。
これに千葉、原、高城らの千葉一族、土気、東金の両酒井氏、万喜城主
の土岐氏らが小田原に兵を送った。
この時真里谷武田氏、庁南武田氏は、どちらの味方をするか迷い、
小田原に兵を送った様子も無く、かといって秀吉のもとへ参陣もしていない。
秀吉の降伏勧告を受け入れた北条氏直は、小田原城を開城し後北条氏
は、壊滅した。
そして後北条氏が領した関八州は家康に与えられ里見氏は、参陣が
遅れたという理由で、上総、下総は没収され、安房一国だけが与えられた。
態度が不透明だった両武田氏は没落の運命となった。
庁南城主の武田豊信は、徳川勢に攻められ自刃してはてたとも信濃
松代に逃れたとも云われる。
真里谷城の信高は徳川勢に降伏し城を開城すると下野の那須家にて終わったと云う。
こうして両家合わせて、二十五〜二十八万石と推定される真里谷、庁南
の両武田氏はあっけなく没落したのであった。

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